2025年の不思議

2025年1月

虹;

昨年は3日続けて虹を見た。早起きが最大の理由だろうか。

部分であったり、発生の様子だったり。そして今年に入り、でっかいアーチ状の虹を見た。全体像がスマホ写真に入らなかった。

多くの人が目撃した筈だが、見れた人達はこの時間に活動していた

特殊な人達。職人達は社内で朝飯か、仮眠覚醒中や待機中といった、

関心ない世界に。見れる人と見れない人の差。又は見なくて済む人と見てしまう人。これを学んだ。

 

八幡神社

2日初詣。人は多い。ある樹木には何かが居そうな気配。

稲荷様関連ではなさそうだが、神使いの鳩も境内では見ていない。

再度訪問ドンドへ正月飾り奉納時もそこはちょっと違う感じ。

他には神社独特の結界感は相変わらずで、他には地域住民の思いが

充満している感じ。

 

悟り

25年1月、就寝時、急に現れる。形式は岩肌、崖か、榛名神社が近いだろうか。

意思はあるが感情のない状態。湧き出る欲求を消し、何を欲する事なく存在する。

こんなの存在意義ないと思ったが、それ自体の思いも消す。存在と言う概念すら無い、

そんな状態を観想ではなく、感じるでもなく、確かに私ではあるが、個人と言う認識なく、

何だか別の何かの流れの中に入ると言うか、繋げると言うか、そのような感覚を観た。

別次元と言うか、普通の認識、感覚とは別の何かこれらは何もない他の領域。

それはわかったが、そこに今行くと戻れない、別の流れに進む事になる。

この領域が悟りで解脱と呼ばれる事なのだろう。しかし、その流れに入って尚現世に

肉体を残した状態はまだ想像できない。しかし、何かわかった。この糸口を頼りに日々

観想して行く事が修行なのだろう。この無形なものを形として認識し、掴むのだ。

新約の世界と少し似ている。こちらは大いなる自然と言うか、人によっては宇宙とか

真理と言う言葉表現しか当てはまらないが、これぞ自然の流れに入る事。

新約ではその存在が“父”としていると近い存在。あるいは同じでは。

固有とか唯一とか表現される神は本当はこの人格めいたものがわかりやすいのだが、

その存在は大きな人格を超えているものである。

 

3月

最近思う。

何か薄カラのようなものをやぶるのだ。というイメージが湧いていた。体の精神が楽になると言うか、成長するような良いイメージ。但しどうやるのか、何をするのかわからない。心の持ちようのようだが、これはただの中二病的なものか、仏の教え等の成長によるものか、まったく別の物か、錯覚か。とにかくぼんやり近くにあるように思う。逃すのだろうか。私の都合良いように運ばれて行くのだろうか。

なんて慌ただしい。私を守護する方々への感謝は事ある毎に。

私を心配してくれる知人、友人には感謝を。

 

夢の書とめ

私の体は小さな千社札となって遠くに見える。但し、その札面積と言うか容量は小さい。それを眺めていて、そんなもんだと思い知らされる。人生そんなもんで、欲求や心配事がなんでもないと言うか、逆に今だから味わるというか、そんな感想を持つ夢。

 

飲み仲間と旅行

カミさんも一緒だった。みな慌てて搭乗手続きをしているが、私だけ遅れた。

遅れた対応をしていると作家先生が前に並んでいた。挨拶したが、その顔も覚えている。誰に似せているのだろうか私の夢は。遅れる時に荷物整理でジャージが机に出しっぱなしだった。以前にホテル泊夢のチェックアウト時やぷーるのような風呂でも同じような出来事があった。引っ越し先遅れを木にしているのか。

おじきの夢

石井さんが出て来た。バイクを倉庫から出して来たが、そこは私の小学校門横だった。この小学校らしき光景はたまに出て来る。今回は石井さんの引退記念?に皆のバイクで上空飛行しようというもの。バイクで上空とはわかわからないが、意気揚々と仲間達と準備した。私は枕のような防寒を頭に巻いた。「寒いからね」と尋ねた奴に返した。コルセットが象徴として出て来たのではとも思う。

 

妻夢も相変わらず見るのだが、お別れに近いものもある。死者として登場しているのは変わらずだが、別れとして言いたい事を伝えるような夢。

 

不思議夢

風が小窓を揺らしていたからかも。自分の殻だの中の小さい部分なのだが、これを使わないと機能が失われて行く。だから使わないと。と夢の中で夢分析した。これらの夢で現実の中の何か未使用な所を表に裏返すような事で殻が破れると漠然と思う。

 

妻の夢

まだ見る。亡くなっているのに家にいる。その事は本人もわかっているが、なぜここにいられるのかはわからない。おそらく傍にいて欲しいと私が思っているので夢見るのだろう。何度も違う状況で見ている。一度は玄関でただいまと言っていた。また買い物をして来たらしく、お金を渡そうとする自分。父や母が登場する夢も見る。亡くなった家族と過ごした日々が懐かしいのだろうか。たまに部屋に妻がいるように思う。それも新盆法要前後だった。

 

秋祭り

週末の秋祭り日に近所を歩きまわった。教会が少し神々しいというか、少し異世界感を感じた。待ち合わせの有自宅へ時間調整も兼ねて、普段通らない道へ。住宅街は静かで曇天であったし、人は数人歩いていたが、何故か古くからの生活感と平和な日常感の継承が沸き起こった。そんな感覚時、街路樹が何かを呼んでるような感覚を共有した。何かはわからない。「雨か?」いや数日前に警報級の雷雨だった。おかげで空気も澄んでいるのだが、何やらこの辺り一帯が清浄感というか、時間の流れが混濁してると言うか、不思議な感じだった。嫌な感覚ではない。祭りの神社も賑やかさの中、優しいものが満ちていた。怒られる前の優しさでない事を。そうだ、今朝も虹を観たっけ。

12月に入っても妻の夢は見る。亡くなっているのに帰って来る。会話もできるようになった。渡井は心配をかけているのだろうか。私が思う以上にしっかりした妻だった。家事をしているとよくわかる。これは世の夫達皆そうだろうか。何故家にこれるようになったの?とか色々質問もしたが、答えのはダメと言われた。そんな夢を南海も見ている。